概要
石川県(いしかわけん)は、本州の中央、日本海側に面した北陸地方に位置する県で、県庁所在地は金沢市です。
面積は4,186.09km2で、南北に細長い形状をしています。
県北部を「能登(のと)地方」、県南部を「加賀(かが)地方」といいます。能登と加賀の呼び名は、かつて令制国時代の能登国、加賀国が由来です。
加賀地方の西は、日本海の海岸線が続き、東には両白山地の山々があります。南東部には白山、北部には突き出た能登半島があり、半島全域が能登地方です。
人口は約116万人を有し、そのうち約40%が金沢市に居住しています。
金沢市の人口は、北陸地方では新潟市に次いで二番目に多く、北陸経済の中心地の一つです。
県のシンボルは、花はクロユリ、木はアテ、鳥はイヌワシです。
県公認のマスコットキャラクターは「ひゃくまんさん」です。
ひゃくまんさんは石川県の郷土玩具で縁起物の「加賀八幡起上り」をモチーフしたキャラクターで、輪島塗のひげが描かれ、前身には金沢箔、加賀友禅柄の菊やぼたん、九谷五彩(赤・黄・緑・紺青(こんじょう)・紫)を使って華やかなキャラクターです。
加賀藩であった江戸時代には、学問や文芸を推奨していたことから、城下町であった金沢を中心に、県内各地で伝統文化が受け継がれています。
能楽の加賀宝生、織物の加賀友禅、金沢漆器、大樋焼、輪島塗、九谷焼など、芸術性の高い伝統技術が数多く伝承されています。
伝統工芸展の入選者数は、全国一位を誇ります。
県の産業は、「加賀野菜」として知られる地域の特徴を生かした農作物の栽培が盛んです。
加賀レンコン、加賀キュウリ、源助だいこんなど15品目が加賀野菜として認定され、中島菜、沢野ごぼう、金糸瓜などの13品門が能登野菜として認定されています。
漁業の水揚げ高は、日本海側12府県の中では三番目にあたります。
水揚げされる魚はカタクチイワシ、スルメイカ、ブリ、マアジ、ハタハタ、カレイ、ズワイガニなどです。
観光業も盛んで、石川県を訪れる観光客は年間2千百万人を超えるといわれています。
北陸新幹線が開通したことにより、関東から訪れる観光客の数も増加傾向にあります。
観光スポットとしては、兼六園、金沢城公園、和倉温泉、山代温泉、山中温泉、片山津温泉などがあります。
他にも、県内には整備された国立公園、国定公園、県立公園が8か所あり、市民および観光客のい憩いの場所となっています。
歴史
成り立ち
令制国時代は県北部の能登地方は「能登国」、県南部の加賀地方は「加賀国」に相当していました。
それ以前の飛鳥時代には、越国、越前国に含まれていました。
奈良時代には、能登国が立てられましたが、741年越中国に併合されています。
当時越中国の国司として陸奥奈良時代の政治家、歌人、三十六歌仙の一人であった大伴家持(おおとものやかもち)が赴任しています。
757年に、越中国から分離し、再び能登国が立てられました。
加賀国に至っては、平安時代の823年に越前国から分離し、加賀国が立てられました。
加賀国は令制上最後の立国です。
鎌倉時代、加賀国、能登国共に主語したのは比企氏、北条氏でしたが、室町時代に入ると加賀国は斯波氏、冨樫氏、能登国は吉見氏、畠山氏に別れます。
その後織田信長によって能登国を前田利家(まえだとしいえ)に、加賀国を佐久間盛政(さくまもりまさ)に与えます。
豊臣秀吉が実権を握ると、前田利家は加賀国を領し、金沢城に入り城下町を築きました。
ちなみに前田利家の長男である前田利長(まえだとしなが)は、越中国を与えられ、江戸幕府の時代には、加賀国、能登国、越中国の3国を治める藩主となり、大名の中で最大石高の120万石を領しました。
明治に入ると、加賀藩は金沢藩になり、1871年の廃藩置県沢藩域で金沢県(第1次)となりました。
翌年の1872年に県庁を当時の石川郡に移したことに伴い、「石川県」と県名を改めました。
歴史的人物ゆかりの地
『兼六園(けんろくえん)』金沢市
兼六園は、1583年に加賀藩の初代藩主である前田利家が金沢城に居城して建造されました。
最初に建造されたのは、利家の菩提寺「宝円寺(ほうえんじ)」と祈祷所「波着寺(はちゃくじ)」です。
その後歴代藩主により、長い歳月をかけて増築され現在の姿にカタチづくられました。
「加賀1百万石」と呼ばれる、加賀藩の文化を見ることが出来る文化遺産です。
現在は、県民はもちろんですが、国内外からも多くの観光客が訪れています。
『金沢製糸場(かなざわせいしじょう)跡』金沢市
1874年に二代目金沢市長であった長谷川準也(はせがわじゅんや)氏が設立した金沢製糸会社の工場として建造されました。
当時は富岡製糸場に 次ぐ全国第二の規模を誇った製糸場です。
『成巽閣 (せいそんかく)』金沢市
兼六園の東南隅にある奥方御殿で、第13代加賀藩主前田斉泰まえだ なりなが)が母君の隠居所として建造したものです。
木造2階建て、寄棟造りです。
華麗な紋様、刺繍、意匠が施された表着・小袖・帷子・夜着・帯など奥方たちの衣裳や調度品などが展示されています。
『那谷寺(なたでら)』小松市
717年泰澄神融禅師(たいちょうじんゆうぜんじ)により開創されたお寺です。
戦国時代に度重なる戦乱により伽藍が焼失しましたが、江戸時代に入り三代藩主前田利常公が再興しました。
史跡/碑
『上山田貝塚(かみやまだかいづか)』かほく市
縄文時代中期の貝塚です。
東西約250メートル、南北約80メートルの平坦な独立小丘が貝塚遺跡で、かつてこの地にあった干潟が、どのように現在の潟に変化したのかを知る手がかりとなる史跡です。
『能登国分寺跡(のとこくぶんじあと) 』七尾市
8世紀初頭に、当時この地方を支配していた能登臣(のとのおみ)の一族が創建したといわれています。
能登の仏教の場として栄えた場所であることがわかっています。
『東大寺領横江荘荘家跡(とうだいじ よこえのしょう しょうかあと)』白山市
奈良・平安時代の荘園(しょうえん)遺跡です。
歴史的建造物
『長町武家屋敷跡(ながまちぶけやしきあと)』金沢市
長町地域は、かつての中・下級加賀藩士が住んでいた屋敷跡が残っています。
今も市民の生活が営まれる街並みは、風情ある雰囲気を漂わせています。
『東山ひがし地区(ひがしやまひがしちく)』金沢市
1820年頃、茶屋町てあったひがし地区には、当時の茶屋建築の建物が残っている地域です。
茶屋建築とは、一階に出格子があり、二階の建ちが高く座敷があります。
京都の祇園地域とともに、江戸時代から明治時代の茶屋文化を伝える建築物とされています。
『気多大社(けたたいしゃ)』羽咋市
陸道屈指の大社として知られる気多大社は、741年、能登国(のとくに)が越中国(えっちゅうこく)の一部であった時代の越中国の一宮とされていた神社です。
現在も縁結びの神様として知られ、多くの参拝客が訪れています。
『妙成寺(みょうじょうじ)』 羽咋市
宗祖・日蓮聖人(にちれんしょうにん)の孫弟子・日像(にちぞう)上人を開祖に建立された神社です。本堂は1614年に建立されました。
日蓮宗の北陸本山で、能登随一の大伽藍をもつお寺として知られています。